十津川

上野地


地図をみると新宮駅は、和歌山県と三重県との境に位置し、五條からは距離にして110キロほど離れている。国道168号線によって繋がれたこの両市間を、2002年現在奈良交通バスは毎日2~3本ほど特急新宮行きとして運行している。所要時間は5時間を越える。なぜそんなに時間がかかるのか。それは乗った後ですぐに分かった。市内を行き来する小型のワンマンバスとは違う、ややこの場には不釣り合いとも思われるハイデッキの観光バスに乗り込んで新宮へ向かった。

国道168号線は山地という山地を迂回し、川沿いのわずかな平地を削って作られた道路である。センターラインのない単車線区間が多く残っており、上りと下りで乗用車が交差する場合、どちらかが手前に設けられた待避所で通り過ぎるのを待っている。時にはどちらかがギアをバックにいれて広い二車線分の場所まで移動して行かなければならない。新宮へ向かう大型の観光バスは対向車のために何度も停車し、そして遅れのために後ろにならんだ後続車に対しては運転手が窓から先にゆけとしきりに手を振って、追い抜かせていた。

上野地付近の道路工事
(撮影: 2012年3月16日)


道路の脇は断崖である。山崩れがあちこちで見られ、錆びた鉄の壁の向こう側でショベルドーザーが土砂をすくい、ただでも狭い道路を一方通行化していた。各地で道路改良工事が進められてはおり、峰に沿って腸のように蛇行する道路を直線化するために橋梁や隧道の建設が随所で行われていた。しかし、それらを一通り見渡しながら全体的に整備は行き届いていないという思いを抱かずにはいられなかった。工事に必要な資材を運ぶのにも時間がかかり、建設の大型車が出入りするのにもできない。その工事の難解さは、建設に対しては全く素人にも分かりやすいくらい目に映った。人びとはどんな思いでこの地に鉄道をとおしたかったのだろうか。強靭ともいえる緑の山々。その山をしかたなく迂回しながら進んでゆくバスからは青い空は全くみえず、周囲は紀伊の山ばかりに圧倒される。圧倒的な自然を前にすると、逆に人は無力さを露わにさせられる。この地に鉄道を通せるものならやってみろと山は問いかけているようだった。

谷瀬の吊り橋

上野地バス停にて
(撮影: 2012年3月15日)

谷瀬の吊り橋で有名な上野地(うえのじ)バス停で降りることにした。小さな駐車場にバスが止まり、エンジンが止まった。自動販売機とトイレ、すぐ隣に郵便局がある。来た道を2分ほど戻ったところに吊り橋はあった。長さは300メートルほどで、昭和29年に作られた生活のための村道である。

入り口には詰め所のようなものがあるが、誰もいない。橋はワイヤーにつるされ、足下には木の板が並べられている。
歩いてみたが、普通の速度で移動する分には思ったほど揺れない。ただし、自分以外に大勢の人が同時に歩くと揺れは増すであろう。十津川の流れる水のせせらぎ、右手側ではキャンプ場そばでパワーショベルが土を均していた。左手側にはペリポートが不釣り合いな様子でできていた。災害時の対策としてできたものなのだろう。

渡り終わった先が谷瀬の集落である。もし、この吊り橋がなかったらどうなっているのだろうか。その答えは谷瀬側の入り口に張ってある手書きの案内板が教えてくれた。そのままここに引用する。
この吊橋は昭和29年800万円を投じて架設したものです長さ297.7m高さ54m通学および生活用のつり橋としては日本一と言はれています
付近の河原の水量の割に広いのは明治22年の大水害まで集落や農地があったところです当時の被害者は新天地を北海道に求め移住した
谷瀬の人々はこの橋ができるまで川に丸太橋を架けて行来していたが洪水のため流され勝で一戸あたり20万円と云ふ当時としては思い切った出費に耐え村の協力を得て完成をみたのです
『司馬遼太郎の風景 オホーツク街道/十津川街道』の中にこの吊り橋についての記載がある。当時の集落は38戸ほどでで、マツタケのとれる松山を売ったが600万円にしかならず、足りない分を村に出してもらった。
お上を頼るのではなく、できることは自分たちが動いて解決するという姿勢がこの村には根付いている。このくだりを読んだとき、五新線で関わる人物たちの奮闘する姿と結びついた。理想を追い求め、周囲に対して強烈なリーダーシップを発揮するのは、どうも十津川出身の人間が多いような気がしていた。木村篤太郎も前田正男も、奈良から活躍している政治家は十津川出身者である。

上野地へ引き返し、ここから少し十津川温泉方面へ歩いてみる。新しくできた国道と残されたままの旧道が共存している区域では旧道を歩いてみた。絶壁の脇を、狭く簡素なアスファルト道が敷かれている。中学校、駐在所、ガソリンスタンド(コンビニも兼務している!)などが一通りこの地区には点在している。

南帝陵、国王神社まで歩き、ひとまず最寄りの月瀬口バス停までバスを待つことにした。途中には県の土木建築事務所があり、黄色い国道パトロールカーが止まっている。災害発生時には情報を知らせる電子表示器があり、衛星通信なのか大きなアンテナが建物の脇に設置されていた。落ち着いた自然の〝静〟の空間に人工的な〝動〟が存在しているといってよいだろう。この地区でも国道の改修工事を続けているようである。クレーン車、行き来するトラック、新しい陸橋、広く直線的なトンネル、月日を別として、そこは五新線の建設現場に時空を飛び越えてやってきたのではないかというくらいの規模だった。

滝川

十津川村営バス車内
(撮影: 2012年3月15日)

月瀬口から十津川温泉行の村営バスに乗った。奈良交通が運営する急行新宮行ではなく、あくまでも地域の人々が利用する脚代わりを利用してみたかった。運転手に村役場まで行きたい旨を告げると、次の特急に乗った方がよいといわれた。このバスだとまっすぐ行かず、国道から分岐する村道を経由し時間がかかるためである。しかし到着時刻が同じくらいならいろいろな大字を見て回れて好都合である。

村営バスには近くの――おそらく上野地中学校であろう――中学生が2名乗っていた。携帯をいじるわけでもなく、それぞれ黙って外の景色を見ている。
運転手は、まるで誰も乗っていないかのようにエンジン音を響かせながら進んでいく。料金表が次々とロールされていき、停留所を知らせる案内の自動音声がむなしく聞こえてくる。
1人は風屋を過ぎて、その先の村道に入り、滝川で降りた。距離にして14km、時間にして約30分の場所から通っている。バスは奥里まで路線としてあるが、国道と違ってさらに奥地である。できたばかりの国道はこのような感じだったのであろうか。映画『萌の朱雀』の舞台である平雄地区と似ていた。

後で調べてわかったことであるが、十津川村の中学校については統合があったようで、私が十津川を訪れたちょうど数日後、上野地中学校では閉校式が行われており、平成24年度からは十津川中学校にて授業が行われることになっていた。災害の影響で2学期は役場近くの小原中学校で授業を行っており、落ち着くまもなく再び学舎が変わることになった。

小原

十津川村役場
(撮影: 2012年3月15日)

1時間以上の時間をかけて十津川村役場に着いた。
この手前は湯之原と云って三大十津川温泉の1つである湯泉地(とうせんじ)温泉があるところである。以前は国道沿いに温泉があったが、皮肉なことにバイパスができて通り過ぎてしまったため、温泉がある施設は停留所から歩いて戻るようになってしまった。

もしこの地に本当に鉄道が走ることになっていたらどうなっていたのだろうか。阪本駅(仮称)から唐笠山をくぐって辻堂駅(仮称)、白六山の麓を抜けて十津川に入って上野地駅(仮称)、高時山を突き通って湯之原駅(仮称)だろうか。いずれも1000メートルを超える山の中を隧道で進むしかなく、駅以外はトンネルという地下鉄のような状態になってしまっているはずである。

道の駅、歴史民俗資料館をみて歩く。入り口などに村の観光案内の冊子が置いてあるのだが、これがやたらと種類の多いことに驚く。もともと京都・奈良という地域柄なので、パンフレットが多いとは思うが、いったいどれだけの費用をかけているのだろうか。

平谷

(撮影: 2012年3月15日)

十津川最後の訪問地である十津川温泉停留所に着いた。

ここも阪本と同じように川の幅が広くため池のようになっているのだが、水の色が茶色く濁っていた。平谷の旅館の方に話を伺ったところ、これも災害の影響だという。昨年の大洪水で2ヶ月間温泉が出なくなってしまった。その後出るようになったが、十津川の水の色は戻らない。本当はきれいな緑色をしているのですよ、といわれた。
倒れた流木や崩れた土砂が周りに目立ち、破損された陸橋は迂回路を作って今まさに修理している最中だった。

しかし、十津川全体が停滞しているという感じはほとんどしなかった。バス乗り場付近の「町のコンビニ」にて若者たちが店の前でずっとおしゃべりをしていた。どこでも変わらないものだ。

村の様々な場所で、復興をめざすポスター(ステッカー)が目に留まった。東日本大震災もそうだが、多くの災害はその場で経験した人を除けば、報道され続けることによってしか人びとの記憶には留まらない。そのくらい日々の情報が人間の中を通り抜けて行ってしまっている。しかし、ここでは災害は人びとの記憶からすで消え去っているわけでは決してない。

今後を踏まえてより安心な安全な村を目指して、ライフラインである国道は改良を続けていくだろう。
翌朝のバス待合室には学校へ向かう黄色い帽子をかぶった小学生たちが賑やかに座っていた。備え付けの漫画本を読んでいる児童もいる。皆明るく屈託のない笑顔をしている。

明治維新の際には天皇に仕えた勇ましい直向きな姿で、明治の大洪水の際には北海道へ新天地を求めたように、また歴史を作っていくのではないかと考えながら十津川を後にしたのであった。

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1月 23, 2019
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