大正-拡大路線と請願

五新線請願のはじまり


複数の文献を参考にしたところ、明治の終わり頃から五條より奥吉野への鉄道敷設の声が上がってきたとある。1920(大正9)年7月、宇智郡五條町で五新鉄道期成同盟会が組織されてからというもの、鉄道敷設のために上京し請願書を提出するなど国に働きかけを行ってきた。

以下は大正9年の請願書 (『西吉野村史』西吉野村教育委員会(1963年4月30日発行) )で当時の貴族院及び衆議院両議長宛に出したとある。そのまま引用すると長くなり、記述も古風なので、わかりにくい。当方にて要約すると以下のようになる。この内容は昭和に至るまで数多くの人間から同じくして語られることになる。

奈良県宇智、吉野、和歌山県伊都郡、東牟婁郡は農鉱林の各種資源が豊富で、日本有数である。木材は各地方に供給する箇所があって、阪神や近畿だけでなく、名古屋や東京まで考えると莫大な金額である。しかし搬出することができず、無尽蔵に蓄積されたものが原生の状態のままである。

沿道は神武天皇の御順路で、かつ南朝の史跡として賀名生に後醍醐天皇の皇居、十津川に黒木御所跡がある。瀞八丁、熊野三山、九里峡など絶景地もある。温泉、霊山高野、大峰など名勝史跡はその数たるや枚挙に暇(いとま)がない。

本地域の交通状態は、これに沿う西熊野街道を見れば容易に推測できる。この道は字智・吉野の両郡組合によって年々巨額の費用を投じて改修している。敷設区間となる五條ー野原間の吉野川に架かる鉄橋を議決し、来年大正10年度より着工しようとしている。この道路は五條町を起源とし吉野郡を貫き、遠く南紀に達し、車や物貨による交通は頻繁にある。
敷設されるべき路線の脇には、丹生川、天ノ川、十津川、新宮川等の流域に沿っているため、他に比べ工事は頗る簡単である。その路程は五條、新宮の70里だ。

沿道には水力発電を行う会社も数社あり、これを利用すれば運輸上に多大な利便を有する。
もしこの鉄道が完成したら、和歌山の沿岸地方に対して物資の需要を円滑にし、旅客の便益を与え、産業の振興になる。また有事の際には軍事行動を迅速にし、帝国の防衛になると信じている

請願書の観点を大まかに列挙すると、次のようになるといえるだろう。

・森林資源の活用
・観光資源の活用
・物資運送、交通の需要
・手軽で簡単な工事
・防衛上の備え

ここから工事の開始させるも中止再開を繰り返すことになるとは、まだこのときには知るよしもないのである。

議会を通過


1920(大正9)年に五新線の請願が始まり、同年に決議案が提出。ここで衆議院議員であった十津川村出身の玉置良直の努力によって、何の問題もなく可決される。玉置の主張は先の請願書とほぼ同じであるから、ここでは省略する。それについて、大村政府委員は次のように述べている。 (第43回帝國議會衆議院 勢和鐵道促成に関する建議案他1件 委員会議事録 第2回(大正9年7月21日) )
この五條新宮間の線路は、必要な線路と思いまして、線路網に載せた次第であります。しかしこの線はよほどの難工事であるということになっておりまして、大正2年に1回踏査をしたままになっております。1回踏査をして難工事といわれた線にもかかわらず、この線路網に入れたのは、今提案者からのご説明の如く、重要の線と政府も認めて線路網に載せた次第です。この踏査の結果によりますと、線路の延長は70哩、最急高配が40分の1、建設費の総額は1900万円、1哩に付き27万円そういうような結果になっております。これは踏査でございますから、確実とは申し上げかねますが、まずざっとこのくらいなものとお考えくださって差し支えないと思います。これによりますと、大正2年の物価の安いときに1哩27万円と申すのは、非常な難工事と考えられます。その難工事ではございますが、早晩この線は欲しい造りたい線でございます。
少し大変になるのだけれども、という含みを持たせながら話している様子がうかがえる。その後別の議員より、現在の価格にするといったいどれくらいの建設費がかかるのかと問われ、「1哩につき40万円くらいかかる」と答えている。

拡大路線


1892(明治25)年に公布された鉄道敷設法では、33路線が建設予定線としてあげられたことは先に述べた。実際に地方の幹線ともいえる重要な路線になるこれらは、着々と建設されていった。五條から和歌山につながる和歌山線に関してもこの時に取り込まれており、開通している。それから30年後、1922(大正11)年4月に鉄道敷設法を改正する。幹線と幹線とを結ぶ地方線らを計画に取り入れるとして、建設予定線を149線に増やしたのである。そしてこの時初めて「八十二 奈良縣五條ヨリ和歌山縣新宮ニ至ル鐵道」(五新線)が「豫定鐵道線路」の中に含まれることになった。

この鉄道敷設法の改正について、なぜ路線をこれほど広げることになったのか。改正の1年前、第82回鉄道会議 (野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 第12巻 鉄道会議議事速記録 第20~28回(明治42~大正11年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行) )の中で、この敷設法改正の件が諮られている。石丸重美は次のように理由を述べていた。例によって、表現を平易なものに変えて部分要約していることをご了承いただきたい。

敷設法の議事に就きまして理由を簡単に説明致します。ご承知の如く、現行敷設法に規定してございます所の予定線路はわずか2線を残すのみとなりました。まだ工事をしているものもございますが、数年後には完成を見ることができる状況です。今や我が帝国内地において国有鉄道並びに地方鉄道を合わせてその既成路線は約8403里できているのでございます。工事中およびその予算を議決しているもの、計量を終わって当路の許可を得ている未成線が4095里あるのであります。
この未成線を作り上げたときにおいては、その交通運輸の状況に就きましても見るに足るべきものがあろうかと考えます。しかしながら決して我々は満足することはできないのであります。政治経済および国防上の見地から致しまして、ことにこの戦後の経営に属します所の殖産興業地方開発のその先駆者となるべき新線の調査研究を遂げまして、そしてこれを敷設法に順次加え、その鉄道の普及を是非とも計らねばならないのでございます。しかしながら従来は実際そのときに臨みまして新線路を選定追加して敷設してきたのでございますが、その方法ですと我が鉄道経路の統一された線路網の完成と致すところについて甚だ遺憾の点が多いのでございます。
鉄道の如きは申し上げるまでもございません、国運の伸展に至大の関係を有する大事業でございます。これに対してはあらかじめ鉄道政策すなわち国策の樹立を致しませねば、国家のために大変不利益の大なるものがあると思うのであります。
故に、将来我が帝国の鉄道網を完成させるに就きまして、必要なる所の線路を十分に調査致しまして、そして今後10年の間に建設を致すべき予定線を予め法律を持って定めておき、鉄道普及の理想と致します網を定めて、これを建設の目標と致しまして、経費の許す限り順次完成させ、ついに整然たる所の大交通網の実現を企画したいと考えるのであります。
(第82回鉄道会議議事速記録 大正11年1月17日)

将来の鉄道におけるグランドデザインを構築する。こう書くと言葉はきれいであるが、まさに大風呂敷を広げた法律となった。鉄道省では明治から大正にかけて全国で測量を行い、優先順位をつけて敷設に取り組むべき路線を列挙したと語られている。

しかし、このとき既に情勢の変化を感じ取っていたものがいたのではないか。自動車へとシフトする交通の変化、外国からの輸入に依存することとなる資材資源の変化、そして経済情勢の変化である。さらに純粋なる必要不可欠な要素で選び出したというこの路線らが、後から後からさらに追加されていく様を見ることになる。

着工を急げ


1922(大正11)年4月に改正鉄道敷設法ができて、五新線が建設予定線に計上されることとなった。それを受けてのことであろう。地元ではこれを是非ともすみやかに着手していただきたいという請願書がある (『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会(1959年3月31日発行) )ので、みてみよう。例によって、厳密な引用ではない。

制定された鉄道敷設予定線の中、五條新宮間の線路を大正12年度より着手していただきたい

理由
本線は奈良県五條町を起点とし、吉野郡を縦貫し和歌山県新宮町に達する延長66里の経路である。沿線の奈良、和歌山、三重三県の各郡は山岳地帯で、いわゆる吉野熊野であり、農産、林産、鉱産など各種物資の産出が豊富である。特に樽材は吉野郡独自の産出物で、天下無比と称されるものである。これらは輸送機関を欠いているため無尽蔵の宝庫を未だ開発させられていない。殖産興業の発達のため、また我ら地方民を不幸にしないためのみならず、国家経済のために避けるべき問題ではない。

本沿線は地方の運輸機関としては西熊野街道と十津川河流の他、わずかに五條から大塔村阪本に達する大和索道があるが、運輸能力が貧弱で、しかも西熊野街道は最近わずかに一部が県道に編入し、一部改修に着手したものの、工程は遅々としており、全線の完成はほとんど絶望的である。十津川河流は毎年春秋になると洪水氾濫して水運はきわめて危険を伴い、地方民の被害ならびに国家の損失を少なくするためにも、運輸機関の急設を必要とする。

本沿線における重要物産は木材、樽、薪、炭、板などは十津川以北の産出は人肩や馬の背によって五條または橋本に運ぶのである。十津川以南は河流に沿って新宮、阪神その他名古屋に供給されている。その額は1,000万に達するも水道はきわめて危険で、陸路は遅々として搬出能力が乏しく、商機を逃し年々の損害が莫大になり倒産する者を出し、経済界を動揺させている。運輸機関の急設を望む。

本沿線は山紫水明 (さんしすいめい : 日に映えて山は紫色にかすみ、川の水は澄んで清らかに流れること。山水の景色が美しいことをいう。(明鏡国語辞典 第2版))、神武天皇の御順路に当たり、至る所に史跡霊域がある。賀名生は後醍醐天皇の行宮(あんぐう)、大塔十津川に黒木御所、天辻には天誅組の苦戦の跡が、吊り橋は奇勝絶景に富んでいて、瀞峡は天下の勝地として誇れるものである。気候は中和で温泉地もあり、その他名勝旧跡に枚挙に暇がないにもかかわらず、交通機関の欠如のために来往がなく、ただ寂しいばかりでこれらの名勝史跡がただの飾りとなっている。もしここに鉄道ができれば、南朝に、熊野三山に詣でて、高野大峰に登って霊感に接し、国民思想の涵養上益するところが少なくない。

本沿線にて水力発電を起こそうとするいくつかの大会社がある。この動力を利用すれば運輸上多大の利便を得る。もし本線が開通したら、伊勢線との相乗効果で無限の国富の開発利用をすることができる。都への物資の需要関係を円滑にし、産業は勃興し、農村は振興し、有事の際には神(ママ)速を期して帝国の防衛に当たれる。

我ら十数万人の沿線民が熱烈なる期待を達成するか否かは、1つに閣下の英断にかかっており、今日の交通文化の恩恵に預かっていない不幸な我らを救済し、生計の安定を得させていただきたいことを陳情する

優先順位


1922(大正11)年に公布された改正鉄道敷設法によって、予定線は149にふくれあがった。その中に五新線も含まれることは先節にて述べたとおりである。実はその後、大正12年度に工事に着手すべき鉄道を何にするかということで会議が行われている。配付された資料には28線が記載されており、149が必要ということで制定された法律が、どのような基準で選ばれているのかは出席した大部分の人間には知らされていなかった。

鉄道次官の石丸重美は選定理由を次のように述べている (野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第ii期 第13巻 鉄道会議議事録 第1・2回(大正11~14年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行) )。
百四十九線の予定線、此の予定線路は何れも皆必要欠くべからざるものでありまして共に急設を要するものであります、が、実際之だけの数に於きましては之を一時に着手すると云ふことは不可能であります、労力の面に於いても亦予算の面に於いても不可能であるのであります。
それで百四十九本の中より今回選出しました所の二十八線路、是はどう云ふ標準──標準と申しましては語弊があるかも知れませぬが、どう云ふ選び方をしたのかと云ふことの大体を申げて置きたいと存ずるのであります。
それは百四十九本の内より建設線を順次選び出しまする大体の方針は、第一公衆の便宜如何、第二建設費に対する利益及既成線に及ぼす利益如何、第三資源の開発、第四既成鉄道相互間の連絡、第五輸送上の完備若くは補助線、第六国防上の関係、第七水陸連絡の関係、第八鉄道系絡の制定、まあこう云ふものを大体標準と致して詰り是は比較的であります、百四十九本の内からこちらの方が地形上早く造りたい、こちらは連絡上早くしたい、是は非常に工費がかゝるが早くせねば遅れる、いろいろ今申上げましたこう云ふ条項の中に於て当事者が経験ある眼を以て見ました所で極めて出す、こう云ふ先ず標準と致したものであると云ふことを弁明致したのであります
(第1回鉄道会議議事録 大正11年12月25日)

予定線を選んだ所で、それを同時に建設することは予算的にも人為的にも不可能であり、その優先順位をつけて順次建設を進めるという説明である。それではなぜ五新線が28線路の中に残されたのか。再び石丸は次のように説明している。

五條阪本間、是は敷設法第八十二号にございます、五條駅から新宮に至る線、是は敷設法の際に随分議論のありました線でございまするが、鉄道当局と致しましては最も地方開発竝(ならび)に此地方の産物、缺(か)くべかへからざる生活に付ての必需品を之に依りまして簾く運び出すと云ふ方法を有つて居るのであります、言葉を換えて言えば此線路の通過する所は森林も多く木材、木炭、樹皮等を産出し又石炭もあります、此森林の如きは先ず日本内地に於ては著名なものであるのみならず此循環線として敷設してありますものが出来上つた暁には此新宮線の人は左右共に此既成線を利用して大阪若くは名古屋方面に向うに於て非常な迂回を致さなければならぬのであります、それが此五新鉄道が出来れば最も短い所に於て最も簾く行かれることになります、
何故之を急ぐかと云ふとこの如く此線は割合に距離も長うございまするし、仕事も困難であり金も随分かかりますが、この如き線路は唯今線路網を一定の間に遣上げると云ふ元来の頭を以て仕事をします時に少しでも早く着手致して其困難なる所をぼつぼつやつて行くと云ふことが経済上相当なる一の方法なのでございます、それで五新鉄道の最も金を要する区間が五條阪本間であります、で、此間を開通させますればそれから後はずつと工事も易く又費用も掛りませぬ区間に移るのであります、若し之が出来れば此阪本以南新宮に至る迄の間に木材の運搬其他鉱物の運搬が安全で且つ簾くなるのであります、
唯今は皆船で新宮付近に集めまして船で運んで居るのでありますが、あの海岸が冬季はなかなか暴れる、さうして偶ゝ木材其他を水の力で流すにしても其流すことに常に損害を被りまして甚しきは年に百萬圓も水害の為に此物産を失うと云ふことがあるのであります、それで是は成るたけ早く着手してさうして外にも関係線路が出来ますと是亦困難な部分だけは造り上げることに致したい為に特に之を選んだのであります、是亦国防上に於きましても必要な線路であると云ふことを陸軍省に於て認めまして今の陸軍大臣の御話に依て貴族院の特別委員会の議に掛けた次第であります、さう云ふ線路であります

発言の中に、最も金のかかる区間が五條から阪本というのがある。これはどういうことだろうか。確かに城戸以降は隧道を多く作らねばならないし、実際にコスモ観測所として利用されている天辻隧道は巨額の費用がかけられた。そこで思い出すのが大正9年の請願書である。その中には天ノ川、十津川、新宮川の流域となるので工事は容易であると記載されている部分があるのを思い出した。本当にそのつもりでいたのであろうか。どう考えても阪本―新宮間の方が困難であろう。

このように、国としては来年度から工事を開始するけれども、ひとまずは五条から阪本の区間で行う、という限定した形となった。

増加する予定線


1922(大正11)に改正された鉄道敷設法で、149線が建設予定線に選定された。しかし、政府の意向のよって追加されてきていた。

1925(大正14)年2月8日の毎日新聞には、規定計画を議会で通過させようとする議員の主張が次のようにある。
我が国の鉄道は二万哩(マイル)、これを人口に割り当てれば一万人の人口に対して三哩半という貧弱なものであって、今後二十年を要してようやくイタリーと同程度になるのである。これが我が国の鉄道敷設計画であるのだから、極めて貧弱なものと断言し得るのである。(と述べるや、憲政会辺りから「君のごとく貧弱だ」と半畳を入れて満場失笑)しかしながら財政上の関係もあるから忍び得るだけは忍ぶべきも、帝国の発展は鉄道の発達いかんにかかるとすれば、これが公債政策によるも差し支えないと思う(中略)何卒本案に満場一致の賛成を希望する
これはもう完全に外国に追いつけ追い越せの勢いであった。とにかく国の政策に後押しされる形で全国各地に鉄道敷設の熱が高まっていった。

拡張路線が最も目立ったのは1927(昭和2)年の鉄道会議で、新規追加が14路線、区間を追加する線路が6路線あった (野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 第14巻 鉄道会議議事録 第3~6回(大正15~昭和4年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行) )。

さらにこの会議では、着手及び完成を繰り上げる路線が10あり、完成を繰り上げる路線は26ある。五新線も着手年度を繰り上げるとして「着手及完成年度ヲ各一箇年繰上ゲ着手ヲ四年度完成ヲ九年度トス」と記載されている。

歴史
1月 17, 2019
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