橋本

橋本駅


最初の訪問はかなり昔で、今から10年以上さかのぼってしまうのだが、盆休み中に観に行った花火大会からそんなに離れていないと思う。その時には和歌山線を使って来訪し、ひたすら国道沿いを歩いていた記憶がある。人が往来するというよりも車が行き来し、その部分では五條とも変わらない印象だった。

再訪は南海電鉄を利用した。ホームの看板は日本語・英語・ハングル文字がそれぞれ記載され、彩りのある観光地むけの案内になっていて、いかにも私鉄らしさを感じた。

改札から外に出てみる。入盆の昼時は閑散としていて、人の姿が見えなかった。駅前はロータリーになっていて、何台かの黒タクシーが止まっている。昔と違って高野山へ参詣に行くためこの地で時間を取るようなことはないであろう。

駅を出て直進すると細い道が坂になっている。この坂が結構急であった。下ると国道24号線が走り、その先は紀ノ川にぶつかる。道路からだと川の様子はよく分からなかった。駅前に戻りちょうどお昼時だったので、近くに食べるところを探して適当に入ってみた。地元の定食屋は、店先で子どもが遊んでいたが、私が中に入って注文したとき、すでにどこかに見えなくなっていた。

繁栄する橋本


橋本の起こりは今から約430年ほど前にさかのぼる。高野山の僧である木食應其上人が、往来の利便性を高めるために橋を造り、宿場を建てた。参拝の人々の助けになればと成したことがきっかけである。この橋はわずか3年で洪水のため流されてしまう。しかし交通の拠点になるべく、元禄以降は銭を取らずに往来客を乗せ舟で川を渡らせたという。紀ノ川と、高野街道と、伊勢大和街道という土地に恵まれ、水陸共に交通の要所として栄え、紀州屈指の町として発展していったあざやかな経緯が市史にも記録されている。

このような地形の利を生かした繁栄は五條と同じような経緯である。しかし橋本の場合、これだけではなかった。先述の木食應其上人は、時の権力者から商業上の特権を拝受し、塩市場の独占売買権や、近隣への水陸物流の主導権を持てるよう取り付けたのである。このとき天正15(1587)年。高野山の僧という立場が権力を持つ時代だったことは想像に難くない。この特権が五條をはじめとする周囲の町村と軋轢を生む原因を作り出すこととなったのである。

五條との出入り


橋本と五條の諍いのエピソードの一つをここに取り上げる。陸路の物流を馬が担う時代、かつて橋本には「馬借順番」という制度があった。商売人は自身の知り合いを指名して荷物を運ばせていた。しかし問屋に縁故のある馬方は毎日荷物があるが、縁故の少ない馬方は仕事が少ない。これだと難儀で効率も悪くなる。今後は縁故に関係なく、馬方を平等にするため、馬順番を決めましょう、と合理的な制度である。

しかし、享保4(1719)年暮れ頃より、五條商人から馬順番を中止してほしい申し出があった。理由は分からない。橋本側は中止しない旨を返事し続けた。これに対して五條商人らは、自分たちの和歌山方面への船荷物を極端に減らすことにした。今度は橋本の船仲間たちが生活に困るようになってしまった。ついには船仲間たちのほうから、この紛争を解決していただきたい旨の願いが出された、というものである。

この話は和歌山奉行所の訴訟からついには江戸幕府へ上告となり、互いに莫大な出費(含借金)をしながら、約5年にわたり争われることとなった。最終的な結果がどうなったのかについては不明である。この出来事を知った時、幾度も上京しながら五新線の敷設を請願する期成同盟の人々の姿と重なった。

高野山を背中に持ち、傑人となる僧侶が民に呼びかけ開基した町は、宿場町として発展し、幕府の保護を受け、やがて紀北一帯の物流と市場を手中に収めた。橋本の存在が、五條にどう影響を与えていたのだろうか? 明治の終わりに開通した鉄道によって、この特権は消えてしまうのである。

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1月 18, 2019
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