昭和-陰りと消滅

計画中止


昭和4年に行われた第6回鉄道会議 (野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 第14巻 鉄道会議議事録 第3~6回(大正15~昭和4年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行) )において事態は急変する。五條阪本間を含む23線が鉄道計画を削除されるのだった。その他にも完成年度変更が70本、繰り延べは53本におよんだ。理由は金である。
今回の諮詢は例年の如き新線の追加又は着手年度、完成年度の繰上と云ふやうなものではありませぬ、建設線の着手年度、完成年度を繰延べ、又は削除せんとするものでございますが、是は財政の関係に依るものでございまして、洵(まこと)にやむを得ないのでございます
鉄道次官青木周三の話は、以後延々と財務的な話がつづく。線路が240哩増加したにも関わらず、予定していた運賃収入が当時の金額で2,254万円も下回っていたことが最も大きな原因である。新線を投入しても採算が合わなくなってきた。自動車の発達も、鉄道を脅かすところまで来ていた。これまでの計画を根本から見直さねばらならないことが明確に打ち出されたのであった。


上京


五新線の計画が消えてしまった。このときの五條を始めとする地域の人びとの気持ちはどのようなものだったのであろうか。請願のために上京したというそのときの文章 (『大塔村史』大塔村役場(昭和34年11月3日発行) )があるので、これを引用してみる。文章表現は平易なものに改め、意訳を含めていることをご了承いただきたい。

(前略)鉄道敷設法制定に際して、当時政府の発表した敷設理由を見るに、数設法149線の中であえて(五新線が)他に遜色がないことは勿論のこと、軍事国防上の点についてもこの必要を認められいる事となっている。なお最近国立公園委員会において決定されている国立公園の地域にも属している。(中略)御伝達を賜りたる仙人踏に富み、いずれの点より照察するも本線を閑却するがごときは、深く本線の実質を考慮されておられないのではないでしょうか。幸いに本鉄道問題発生以来の沿革を詳に調査していただくか、必ずすみやかにこれを復活していただくことを深く確信しております。何卒閣下の大英断によって国家の富源開発すると同時に、今日交通文化の恩沢に受けていない十数万沿線民を救済せられん事、吾等代表して陳情致します。

昭和七年十一月二十八日
五条新宮線鉄道期成同盟会
内閣総政大臣斎藤実閣下
鉄道大臣三土忠造閣下(以下略)


再び予定路線へ


昭和4年の鉄道会議にて、五條―阪本線(五新線)が予定路線から削除されてからも、鉄道会議は続いていく。多くの路線が延期、バス路線への変更を行い、敷設法制定当時の全体像とはかけ離れていく様子がうかがえる。しばらくの間、五新線は登場してこないのだが、予定線として名前が挙がるのは昭和11年12月の鐵道会議においてである。

鉄道次官喜安健次郎は次のように述べている。

奈良県の五條、阪本間の線路でございます。この線路は敷設法予定線の五條、新宮間の一部に該当しておりまして、奈良県五條驛から分岐しまして、吉野郡の阪本に達する線路であります。この線路の敷設は沿線にあります大きな森林地帯を開発するとともに、鉱業の発展を促進するものでございます。なお、国立公園熊野一帯の名所と近畿地方とを接近せしめる結果と致しまして、これらの地方の探勝客を誘致しまして、既成線を培養するの効果も相当大きなものがございます。この線路の延長は23キロメートル、予算総額は516万円あまりに相成っております。17年度完成の計画でございます。

(野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 <第2集> 鉄道会議議事録・鐵道評論他 第18巻 鉄道会議議事録 第18~27回(昭和11~19年)』日本経済評論社(1989年2月20日発行) )


起工式


迷走を続けた五新線の建設であるが、ようやく雲の中の光を仰ぎ見たとはこのことであろう。1939(昭和14)年3月、新町国道筋工事起点にて、五新線の起工式が盛大に行われた。会場には300人以上の参列者が集まったという。その当時の大阪毎日新聞奈良版は次のような見出しをつけている。「その日遂に来りて/歓喜に揺ぐ“待望廿年”/きのふ五新鉄道晴れの起工式/関係者の眼に感激の涙」。

1940(昭和15)年ごろまでのこの時期、吉野川橋梁と生子までの路肩が造られたという。しかし日中戦争による影響で中断し、工事は進まなくなってしまった。またそのほかの計画線に関しても着手や完成が遅れたり、計画を取りやめたりするものまで出てきている。昭和13年の第19回鉄道会議では、完成年度を1年繰り延べ、昭和18年へ修正された。五新線を含めて21線が繰り延べになっているのである。

鉄道大臣中島知久はこの方針を次のように述べている。

実は事変の関係上、鐵道建設費予算は12、13年度におきまして相当額を後年度に繰り延べる必要を生じたのであります。これは事変に関する国費及び所要物資の膨張に対処して建設費を節約し、国策に順応せんとするものでありまして、誠にやむを得ない所であるのであります。

また昭和14年1月の第20回会議においても1年繰り延べで19年にされている。このとき、すでに五條にて工事は着手されているようだった。毎年ごとに完成年度が伸びていく実情をたたきつけられた。国の方針でやるとなったものの、本当に鐵道ができるのだろうか。作る側も作られる側もそのように考えるまもなく、時局は大東亜戦争へと向かっていくのであった。

(表1) 五條新宮鉄道の完成年度変更履歴 (野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 <第2集> 鉄道会議議事録・鐵道評論他 第18巻 鉄道会議議事録 第18~27回(昭和11~19年)』日本経済評論社(1989年2月20日発行) )

年              内容        完成年度
===========================================
1936(昭和11)年  予定線路へ  1942(昭和17)年
1938(昭和13)年  1年延期     1943(昭和18)年
1939(昭和14)年  1年延期     1944(昭和19)年
1940(昭和15)年  1年延期     1945(昭和20)年
1941(昭和16)年  1年延期     1946(昭和21)年
1942(昭和17)年  2年延期     1948(昭和23)年
1944(昭和19)年  1年延期     1949(昭和24)年

新規路線の見直しとバス路線開始


1959(昭和34)ごろ、政府は鉄道の新規路線を見直し、採算の厳しい地域に対してバス路線化を提案。五新線もこれに含まれ、鉄道にするかバスにするかで問題となる。さらに翌年、近鉄が国鉄に代わってこの路線の肩代わりすることを提案、御所から五條、城戸間に電車を走らせるという案もでるのであるが、とにかく地元としてはバスよりも鉄道を熱望する。にもかかわらず、西吉野村だけは鉄道案に反対し、バス路線化を主張した。なぜ鉄道に反対なのか。五條市、大塔村、十津川村、野迫川村などの期成連盟によって五新鉄道の請願書が書かれる中、その連署の中に西吉野村は含まれていないのである。五新線が西吉野村を南北に横断するだけに、地元の意見統一が成されないままでは説得力が薄れる。

なぜ西吉野村はバスを主張したのか。その理由ははっきり分かっていない。

1965(昭和40)年7月10日、国鉄バス阪本線は開通している。開業当時のパンフレットによると五條から城戸間は11.2キロメートル、そのうちの9.1キロメートルが幅4.5メートル、簡易アスファルトの専用道路だ。鉄道を走らせるために五條にて起工式が行われてから23年後、五新線はようやく利用されることになったのである。

歴史
1月 16, 2019
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