五條市街

五条駅前


JR和歌山線五条駅は、奈良県五條市のほぼ中央の高台にある。王寺から和歌山線に乗りかえて約1時間、私はクリーム色に赤い線の入った2両編成のワンマン電車に乗っていた。

私は何度も五條に足を運んでいるが、最初に五條を訪れたのは2001年3月のことであった。まだ国鉄バスが運行していた頃である。五条駅を出て目線を正面に据えると、緑の山々が広がっていた。外の冷たい風が頬をつねり、山脈は雪で白く被われていた。後から知ったことだが、この年は数日前に大雪が降ったようだった。

駅はロータリーになっていて、タクシー乗り場、バス乗り場がある。駅まで見送りや迎えに来ている自家用車も数台見られ、どこにでもある地方の駅と変わりない印象だった。

2012年3月、私は再び五條を訪れた。これまでに何度か訪れてはいて、五新線に関わる舞台を部分的に見て回っていた。五新線を調べ始めて最初にこの町を訪れてからすでに10年以上が経過していた。

それにしても、この近年の間に様々な変化があった。2002年の8月末にJRバス阪本線(専用道)はJRが撤退し、同年9月からは奈良交通が便数を減らしながらも同路線を引き継ぐことになった。2005年9月、五條市は西吉野村・大塔村と市町村合併し面積は約3.2倍の新生五條市となった。2008年2月、五新線の推進に関わりの深い五條町出身の前田正男は他界し、彼が関わった原子力発電は東日本大震災によって世界的な事故を引き起こすことになった。2011年9月、前田武志は民主党野田内閣発足時に国土交通大臣となり、その一ヶ月後に八ッ場ダムの再工事を約束した。ちょうど同じ頃、台風12号による大雨が紀伊半島を襲い、五條市大塔地区の土砂災害はテレビでも連日大きく取り上げられた。死者・行方不明者を合わせて24名、全半壊の家屋118棟、すぐに明治に起きた大洪水を思い起こさせた。

近鉄線経由で吉野口からJRに乗り換える。クリーム色に赤い線の入った車両に乗り込んだ。3月とはいえ冷え込んでいる。気温は10度もないだろう。車内の強い暖房にあおられる。考査期間の学生たちが単語帳に赤いプラ板を手にしながら必死になっている姿があった。

北宇智が近づく頃、車両からはまるで高速道路のような陸橋が見え始めた。京奈和自動車道路である。自家用車の利用率が他県と比べ高く、路線バスの利用は年々減少の傾向にある奈良県では、その混雑緩和や都心部へのアクセス時間短縮を図ることが課題として掲げられている。北宇智を過ぎる際には折り返し行き来するスイッチバックだったが、2007年3月に廃止されているようだった。

駅から高台を降り始めると左側に観光案内所ができていた。記憶が間違いでなければ、確か以前は交番だったはずである。興味があったので入ってみると、若い女性が奥で事務処理していた。五條のマップを数種類もらうことにする。サティ改めイオン五條店の1階にも、観光案内所(南和情報センター)があった。近年急速に観光による地域活性化に力を入れていることが感じられる。

阪本線バス乗り場

左側に見えるのはJRバス阪本線。
やがて構内脇に乗り入れはしなくなった。
 (撮影:2001年3月)

寂しげなバスの車内。照明はついていない。運転手の後ろには「かげろう座」のチラシ。


2001年3月当時の話である。JRの改札を抜けるとすぐ右、柿の葉すしの売店隣にJRバス阪本線の乗り場があった。五条駅から吉野川を渡り県立病院を経由、バス専用道を通って阪本まで行く路線バスである。このバス専用道が、鉄道ができる予定だった五新線の敷設跡地なのである。電車が着いたときにはすでにバスが到着しており、和歌山線とJRバスとは上り下りともに連絡できるようになっていた。

停車中のJRバスに乗り込んだ。車内灯は消されたままで薄暗く、ただでさえ古ぼけた感のある石灰色の車体がますます老けて見える。窓硝子には雨跡がこびりついており、それを乾いた布で拭き取ろうとしたらしい跡も見受けられる。汚れた眼鏡をかけたように、座席側からから外の景色がよく見えない。車内を見て気づいたことだが、広告がほとんどない。唯一、運転席の背面に五條市内の新町で催されるかげろう座と呼ばれる自由市場のポスターが張られたのみで、バスの外側は広告を取り付ける金具だけがむきだしになっている。赤字しか生まない路線バスはこうもあわれなものなのだろうか、と哀しくなってしまったことを覚えている。

五条駅にしばらく止まっていた電車が和歌山に出発してすぐ、バスも出発の時間がやってきた。運転手がエンジンをかけ、低いうなり声のような音を響かせた。ゆっくりと斜面を降りて五條市街へと動きだす。訪問時に数回バスに乗る機会を持ったのだが、乗車する人たちを見みると午前中は学校へ通う小中学生、通学時間以後は駅から病院へ通う老人が主だった。

分岐予定地

五条駅から和歌山方面に進み、城戸方面へ線路(写真では自動車の見える位置)へと分岐するはずだった。
撮影:2001年3月

その後、鉄柵が建てられ分岐の境がわかりにくくなった。
撮影: 2006年8月13日

五新線は奈良県五條から吉野山地を縦断し、和歌山県新宮に延びる路線として予定されていたことは前にも述べた。実際、和歌山線からは五条駅の西、大和二見方面へ1キロメートルほど進んで、現在は裁判所や検察庁のある所から地図上では南へ分岐、約200メートル進むと高架線になり国道24号線をまたいでゆく予定であった。

分岐点に足を運ぶと、一車線幅の道が舗装されず砂利が敷かれたまま和歌山線から弧を描くように枝分かれしている。何度か訪れているうちに気づいたことだが、現在は路線の境はかなりわかりづらいものとなってしまっている。線路のまわりには柵といったものはなく、簡単に中に入れてしまう。地元の子供たちが列車のこない単線の上で、雪投げ遊びをしている姿が印象的であった。

国道24号線

撤去される前の跨道橋
(撮影:2006年8月14日)

撤去された五新線跨道橋。国道の幅が広げられていた。
(撮影:2012年3月14日)

五条駅を降りて24号線を右に進む。見慣れた景色が周りに広がっている。

国道沿いには天誅組の本陣となった櫻井寺があって、観光で訪れている人らが数人歩いていた。そのすぐ先、城戸方面へ向かう本陣交差点あたりから、国道拡張工事の影響を受け始めていた。地下歩道への入り口が新しくなっており、これまでの道路より車線一本分広がっていることが確認できる。国道の北側沿いにあった建物は取り壊され、早くも歩道になっていた。

国土交通省奈良国道事務所の配布した資料によると、2005年から国道24号線のこの地区において、歩道並びに自転車道を整備する工事を進めていたという。

歩道は完全には場所が確保されておらず、明らかに取り壊されるであろうが未だに営業している店舗もある。ガソリンスタンドは、壊すと給油する場所が遠くなってしまうからなのか、撤去には時間と安全面でのコストがかかるからなのか、いつも通り営業していた。五新線跡手前のマクドナルドもまだ営業していた。店舗の外に公園のような子供の遊び場が設置されており、おもしろい作りだったのだが、いずれこの場所には存在していないであろう。

国道を歩きながら、この新たに道路となった部分には以前何があったのか必死に思い出そうとしていた。しかしさっぱり思い出せない。ただ、過去の記憶では歩くたびにすぐ脇を車やトラックが走り、歩行者にとっては危ない道路だとは思っていた。ただし、当時から歩行者はほとんど見かけなかった。

五新線跡の場所まで行くと、国道を通過する跨道橋(こどうきょう)はすでに取り壊された後だった。
下から見上げたときにこすれが目立つ、あの老朽化したぼろぼろの陸橋は姿を消していたのである。道路の両脇の断面をみると、隙間を新たに白色コンクリートで埋めてある。その様子はなぜか血の通った生き物のように生々しかった。

先述した国の資料によると、歩道整備区間は約800メートルで、国道の両側に歩道ができる。となると、道路の走行位置が少し北にずれるということだろう。また、読んだ瞬間に刮目したのだが、この跨道橋はあくまでも一時的な撤去であり、整備イメージ図を見ると再び五新鉄道の高架線が架けられていた。復旧作業日時は未定となっている。陸橋部分を切り取ってまたつけるのだろうか、新しく作るのかそれはわからない。五條市の意図としては、あくまでも観光用として保存するつもりなのだろう。

道路工事の案内板によると、工事の納期は平成25年2月末となっていた。

国道の広軌化、バイパスの新設、渋滞の緩和、安全性の確保――。自動車の利用を前提としたインフラの整備が着々と進められている。自家用車の利用だけではない。五條市では平成23年からコミュニティバスを運行し、それまで路線バスの運行していない地区への脚になるように新たなサービスを開始していた。

五新線という形〈ハードウェア〉はすでに失われてしまっているが、ここに住む人々の豊かな生活を望む気持ちや、広がった新生五條市として、地域を維持発展させていく思い〈ソフトウェア〉の強さは全く変わらずに当時からずっと引き継がれてきて今日に至るのではないかと感じたのである。

朝8時前に電車から降りた学生たちが駅前にある奈良交通のバスに乗り込んでいた。智弁学園の生徒たちだろうか。再び五條を離れるとき、和歌山線は薄紫色をしたきれいなラッピング電車となっており、春の衣替えを済ませたかのようだった。

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1月 31, 2019
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