第5章 至誠天に通ずる


鉄道の路肩に国鉄バスが運行するようになってから6年後、前田正男は1冊の本を上梓した。『人間性制御主義』というこの本は、科学技術の発展と経済的な成功を収めた日本の問題点と意識すべき視点についての持論をまとめたものである。前田正男について調べる際にインタビューはいくつか残っているが、自らが語る記録はほとんどないため、非常に貴重な資料といえる。

日本の問題は、物質的には豊かになったが以前よりも貧困な精神状態にあることを指摘している。その解決策として、科学技術と人間の持つ心の調和であり、これこそがこれからの日本にとって、また生活する人びとにとって必要となるものである、という主題になっている。

本には正男についての方書はおろか、経歴や背景は何も書かれていない。奈良で生まれたこと、議員になったことは本文の中で数回触れられているが、政治家の書いた本としてではなく、経済学者や評論家が書くする内容に近いのかもしれない。非常に論理的である。

物質的なものや科学の力をもってして人類が健全に発展してゆくという時代でなくなっていることに早くから気づいていたのだろう。そこには電源開発によって故郷がダムの底に沈んだことや、鉄道を推し進めることによって五條をはじめ西吉野村など周辺の町村の意見を分けるような大きな騒動を起こしてしまったこともふくまれているだろう。自分が行ってきたことをこれ以上進めても逆効果になってしまうと言っているようにも受け取れてしまう。政治家としての晩年はこのようなことを考えていたのかもしれない。

鎌倉の自宅
(撮影: 2008年3月2日)


1978(昭和53)年4月、前田正男は鎌倉の地に住み始めた。
北鎌倉の駅を降りて円覚寺の敷地を抜ける。鎌倉街道の細い道を鶴岡八幡宮にむかって進んでいくと、ベージュ色のキューブのような四角い外観の建物が現れる。黒川雅之建築設計事務所が設計したデザインは美術館や博物館のような洗練された印象を受ける。表札が2つあったので、2世帯が階を隔てて住んでいるのであろう。

鎌倉の家ができた後、1度だけ衆議院選挙に当選しているが、2年後に後援会で引退の発言をしている。1983(昭和58)年12月の第37回衆議院選挙には出ず、政治家を引退。折しも1947(昭和22)年の同期当選で、ともに原子力法案の草案を考えあった中曽根康弘が首相となっていた時期であった。その後の隠居生活のことはほぼ何もわからない。鎌倉で静かに過ごしていたのであろうか。2008(平成20)年2月12日、前田正男は心不全のため鎌倉市の病院で死去した。94歳だった。

3月、私は新幹線の始発に乗って京都まで行き、そこから近鉄線に乗り換え、橿原新宮にむかった。駅前には桜の花が咲いていて、境内では神前結婚式も行われていた。もうすぐ4月を迎えるにも関わらず気温は肌寒く、朝から小雨が降っていた。偲ぶ会は橿原新宮会館で取り仕切られることになっていた。

会場の広さからしても200人を超える多くの関係者が集まっていたのではないかと思う。正面には献花台と白い菊に囲まれた大きな正男の写真が掲げされていた。会場の周囲には議員時代の鞄や勲一等旭日大綬章を授かった際の授与証、晩年を過ごす家族写真などが飾られていた。

地元からも関係者が多いような雰囲気であったが、前田正男の偉大さに初めて肌で感じた機会であった。あいさつでは前田武志が祖父隆礼について触れながら、故人を語り、嗚咽を漏らしていた。

これで、前田正男について調べた事柄は終了である。本人のことはよくわからないことが多く、周辺の関係者を洗い出して、なにか浮き上がってくるものがないかどうかを確認する作業であった。

阪本線の開通には力が及ばなかった前田正男であるが、日本の未来をよりよいものにするために尽力した。少なくとも20年後や30年後の日本のことを考えて原子力を導入した、科学技術の発展に努めた姿勢は伝わってくる。あえて中途半端なままであるという経緯と歴史から学ぶことがあるはずだ。日本の発展の急進さと、方針のブレ、そして難関な工事を必要とする周囲をとりまく自然の山々の険しさが、この景観を作り出したのではないか。そう考えると、作ればよかったのにとか、初めからやらなければよかったというような結論めいた言葉は出てこない。ただ、近代の日本が歩んできた道の縮図が、この橋に映し出され、隧道に閉じ込められているとは考えすぎだろうか。

前田正男
1月 8, 2019
0

コメント

サイト内検索

連絡