第4章 地元の発展に向けて

戦後、五新線の第1期工事が開始したのは1956(昭和31)年のことである。前田正男が中曽根らと原子力法案を提出し可決から半年後のことだった。科学技術庁の初代長官には正力松太郎が就き、原子力技術を強力に推し進めていることであった。このころ、科学技術の影響は地元にも及んできていた。その1つが、電力発電のための風屋ダムの建設である。

風屋は奈良県十津川の支流と滝川の合流点に位置する字で、前にも述べたように前田家の本籍地である。しかし、ダムによって水田の大部分は水没し、46世帯が移転を余儀なくされた。生まれた場所がダムの底に沈んでしまうというのは、どんな思いだったのであろうか。正男にとって、自分の推進したい方向性によって故郷がつぶれてしまったというやるせない気持ちを持たなかっただろうか。科学技術の推進だけが人間を本来豊かにするものではないかもしれない、という気持ちを感じ始めてきていたのではないか。それが著作『人間性制御主義』に書かれることになるのはもう少し先のことである。

1959(昭和34)年2月にようやく城戸までの路肩が作られた五新線だが、採算が取れる取れないという議論がでてくる。従来通り鉄道を推進するか専用バスに譲歩するかで地域の民意としても意見が割れるような事態になってしまう。さらに、国鉄ではなく民間が委託経営するという話まで持ち上がり、収拾がつけられないままになっていた。この時に五新鉄道期成同盟会が再発足し、会長に前田正男が務めることになった。同盟会は鉄道を促進していたため、バスを主張する西吉野村は会を脱退する。五條でもバス派による五新鉄道推進協議会が発足し、路線は宙に浮いた形になってしまうのである。

鉄道建設審議会小委員会の仲裁規定によって、バス路線が決定したのは1962(昭和37)年3月29日。五條市とともに鉄道を推進していた正男にとっても看過せざるを得ない事態となった。

7月に池田改造内閣があり、小委員会の議長が変わり、運輸大臣も齋藤昇から綾部健太郎へと変わった。これを期と見た正男は猛烈に鉄道を推進する。経緯を知らない委員長と大臣は、はじめ正男の意見に傾きかけていたのだが、事務当局から経緯を聞いてバスのままにして建議を変えない姿勢をとった。国鉄では工事開始となったがそれと同時に城戸以南の鉄道建設工事をすすめることを決定させ、賛成派と反対派の折衝案を取り付けた。こうしてバスが走っているにもかかわらず、その先を鉄道敷設前提の工事を進めるおかしな事態を生むきっかけであった。なおこの件については『西吉野村史』の中にある「五新鉄道・阪本線開通の経緯」に詳しい。

それから国鉄バス坂本線が運転を開始するのは1965(昭和40)年7月。前年には東海道新幹線東京―新大阪が開業し、3時間10分でつながる時代になっていた。五條と三軒茶屋に家を持っていた正男は仕事や帰省で新幹線を利用し、そのたびに思い悩んでいたのだろうか。

前田正男
1月 9, 2019
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