第3章 政界へ

前田正男の政治家としてのスタートは、1947(昭和22)年の衆議院選挙においてである。実はその前年、戦後初の第22回衆議院選挙に立候補し落選している。実父である勇は軍人を引退した後、貴族院議員だった。貴族院は1947(昭和22)年5月2日まで存在し、日本国憲法の施行とともに廃止となった。勇はこの年の前年1946(昭和21)年に議員を辞めており、正男が立候補したのはこの年の4月なので、ちょうど父と入れ替わりに議員になろうしたといってよい。

翌1947(昭和22)年の選挙の際には同郷である五條出身の木村篤太郎は公職追放を受け、司法大臣を下ろされる。前年は27人いた立候補者は16人になった。幸運なことに前年当選した仲川房次郎は不出馬、駒井藤平は衆議院でなく参議院から立候補していた。この席の空き具合もかなり有利に働いたのではないだろうか。5議席ある中での5番目でギリギリの当選を果たすのである。

1947年の『職員録』によると奈良から上京した正男の居住地は品川区西中延の前田方となっている。想像するに、ここが勇の居住地であり、一時的にでも身を置かせてもらっていたのではないか。

同じくこの選挙のときに群馬から初当選を果たした人物がいた。内務省を退職して政治家へ転身した中曽根康弘であった。この2人はのちに原子力法案を可決させ、原子力の技術を日本にもたらすきっかけを作ることになるのである。

木村篤太郎が復帰以後、再び司法大臣となり保安庁(防衛庁の前身)の長官となる。議員になって4年目のことであった。その際正男は木村に「口をかけてもらい」次官となった。ちなみに木村篤太郎は以前も奈良県全区1位当選した北浦圭太郎を次官している。政治家が出世するとはそういうものなのだろう。当時の保安庁は越中島にあったため、正男は越中島と霞が関を行ったり来たりする足まめな「メッセンジャーボーイ」と揶揄されていた。

議員になった正男の中心が、日本で原子力を平和利用できるようにすること、であったといえるだろう。自らが寄稿した論文の中で米国に視察に行った時のことを振り返り、軍の研究機関と民間の研究機関とが互いに秘密にし合い、国費を無駄にしているという事実を反省し、体系を変えていることから、これを日本でも広く取り入れていきたいという内容である。

原子力研究に予算をつけさせることに成功した中曽根は、いよいよ原発利用の法案を通すという段階に来た。前田は中曽根らと1955年8月にジュネーブで行われた国際原子力平和利用国際会議に顧問として出席し、各国の原子力利用に関する行政体系や研究所を調査した。「昼間の調査が終わると、毎晩、ホテルの一室に集まり、ランニングシャツにステテコ姿でベッドの縁に座り、激しく検討を交わした」という。

2011(平成23)年NHKが放送した「ETV特集 原発事故への道程」で、原子力政策委員会の会合を録音したテープを基に、導入の経緯を振り返る番組があった。その中で前田正男の肉声が流れる。「原子力の時代、放射線の時代が来るからやらねばいけないと。できたら予算をつけるとか何とかしようと言っていたのは(改進党の)齋藤君です。昭和29年の予算の時に予算の補正でやることになって、特に中曽根さん、斉藤憲三さんが中心になって原子力関係の予算を作られた」。

他国の原子力利用の技術や制度、施設を見せつけられ、ただ圧倒するしかなかった日本使節団の様子を思い浮かべてみる。機械技術を学んでいた正男にとってそれは、言葉にならないくらい影響の大きなものであったに違いない。

世論には、将来的に原子力の軍事利用を想定したうえで研究すすめるのではないか、という噂も流れた。原子力を推進しているのが保安庁の次官をしていた人間だったということも関係している。しかし正男はのちのインタビューでこれを否定。「非軍事は決められた方針」だった。科学技術長官時代の「技術の人間」においても「安全性を第一に開発、努力」したうえで「原子力発電が絶対に必要」と述べている。

政治家としての前田正男を調べていくと、強く信念を持ち行動するパーソナリティーが垣間見える。その見据える先は、人類にとって最善となる選択をし、実現することだろう。

前田正男
1月 10, 2019
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