第2章 三井物産時代

前田正男の入社した先は三井物産であった。1876(明治9)年、益田孝を中心として設立された三井財閥の中心的な会社である。当初は政府御用商にはじまったが、鉄鋼・紡績・石炭などの事業を傘下に収め、日本の全貿易額の2割前後をしめる総合商社に急成長した。よくも悪くも、財閥は政府の一機関のような組織であって、特にその中でも三井物産は、経済発展を支える重要な民間企業だった。

この三井物産については、膨大な量の研究がなされており、これまで多くの書籍が出ている。詳細についてはそれら任せるとして、正男の関わった時代のみについて簡単に述べることにしよう。

三井物産と国との関わりに触れる上で欠かすことができないのは、1933(昭和8)年、三井財閥団琢磨の狙撃事件である。

満州に駐屯していた陸軍部隊は鉄道の線路を爆破し、これを中国軍しわざとする。この事変をきっかけに関東軍は主要都市を占領しはじめ、満州国を建設し、中国との関係は一気に国際問題へと発展した。リットン調査団が東京へ来た時に、経済界の代表として招く側にいたのが三井財閥の団らであった。調査団の歓迎会が開かれた翌日、三井本館に入ろうとした団は、25歳の若者が発した自動小銃によって右胸部を撃たれ絶命する。政党の賄賂政治や財閥との癒着が新聞を賑わし、義憤を感じる青年将校や民間右翼が政党政治打破、財閥打倒を目指すテロ活動を公然と開始していた。

その後5・15事件がおき、正男の入社する2ヶ月前には2・26事件へと続いていった。三井物産の人間が殺害されることはなかったが、反乱軍の思想的背景となる北一輝に資金提供をしていたことが明らかになった。少なくとも、三井のような大きな力を持つ会社に対して、よろしくない風潮があったということは否めないであろう。

池田成彬は強くなった風当たりを弱めることはできず、1936(昭和11)4月30日に退職した。
正男の入社日は明らかではないが、入った年に社長がいきなりスキャンダルの渦中にあり、臨時株主総会が開かれ、定年制を可決させて自ら引退、しかしその翌年には日銀の総裁になるという、揺れ動く環境の中であったことになる。

正男の2年前に入社した矢野成典は『三井物産ジャカルタ支店』の中で物産入社時の待遇について触れている。「私立大の初任給は73円で帝大、商大出は75円(中略)。最初の数年間は年1円ぐらいの昇給だった」という。『値段史年表』によると、昭和12年の公務員の初任給は75円、第一銀行の大卒初任給は70円とある。これらと比べると、三井がとびぬけて高いということはない。昭和2年に三井に入社しのちに三井不動産社長となる江戸英雄は『寿司屋の証文』のなかで、そのころの三井の企業風土について述べている。「よく働いて儲けたものは給与もよく出世も早い、徹底した自由主義で個人の能力を十二分に活用する方針」であり、「この傾向は物産に強く現れて」いた。まさに今でいうところの成果主義をとっていた会社だったわけである。

日本が戦争に突入するにあたり、物資の輸出入に関して、外国とのやりとりには軍も三井を利用せざるを得なかった。江戸英雄は「情報網が徹底していたため」戦争に負けるということを事前に感じ取っていたらしいが、前述の矢野の書籍を読み進めると、1943(昭和18)年春の時点でも、太平洋戦争の戦況の実体については把握できておらず戦争に負けるとは全く思わなかったという記述が興味深い。
この終戦の2年ほど前の時期に正男は三井精機に籍を置くようになる。戦後、議会での発言で「軍需工場で一技術者として働」いていたとを述べているので、おそらくここでなんらかの製造指導を行っていたのではないだろうか。

この3年後には戦争が終わって衆議院議員になっているのであるけれど、何をきっかけにして物産を離れたのか。GHQの財閥解体の影響は少なくとも何かあると思う。また、その後どこで何をしていたのか。政界引退後の1994(平成6)年に「原子力ニュース」の取材で対応したインタビューでは「郷里から推されて国会に出ました」と説明している。
しかしまだ、わからないことは山のようにある。

前田正男
1月 11, 2019
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