第1章 幼年から青年期


前田正男は、1913(大正2)年7月生まれ。吉野郡十津川風屋を本籍地とする記述があるが、実際のところどの地で生まれたかは調べがついていない。

実祖父である前田隆礼は、大和国十津川出身の郷士(ごうし)であった。郷士とは、地方において武士と同等の身分として扱われた身分の者たちである。十津川は昔から幕府に献上する米が取れないほどの地だったが、勇敢に戦い、命がけで国を守ろうする心意気を持つ者たちの部落だった。隆礼は帝国陸軍の軍人となり、1905(明治38)年第22旅団長を務めた日露戦争の奉天会戦において、頭部負傷をきっかけとし、肺炎のために酷寒の地で亡くなった。57歳だった。

実父、勇は福岡生まれの加藤謙治の三男。槍の名手で、その素質と人間性が戦地で隆礼の目に留まり、隆礼の長女クニ子の婿養子になったとの記述がある。隆礼が亡くなった時、勇は26歳だった。五條で葬儀が行われ、その後男爵を拝受された。

正男は勇の次男として生まれる。6歳上には長男、隆一がいた。隆一は東京の小学校に通っていたが、卒業と共に五條の天神山に引っ越し、中学からは五條中学校(現在の県立五條高等学校)へ通った。これはちょうど関東大震災の時期と重なっている。正男も兄と共に、五條の宇智小学校に通った。

小学校を出ると兄と同じ五條中学校に入学。その後、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)を卒業することになっている。ちなみに兄隆一の卒業も五條ではなく盛岡中学校であり、この時期に兄弟が離れて住むようになった可能性が高い。理由は、勇が盛岡連隊区司令官となったことが無関係ではないだろう。そしてこれは予想なのだが、転勤のため、妻クニ子と長男隆一を連れて勇一家は盛岡に移り住んだタイミングで次男である正男は、養子に出されたのではないだろうか。

正男の養父となったのは、後の陸軍中尉となる前田正実という人物である。正実の祖父、前田正之は同じように十津川を郷土であって、明治23年の十津川洪水騒ぎの際に北海道移住を提案した人物である。1892(明治25)年生まれだから、実父勇より13歳年下になる。正男が生まれた年に陸軍士官学校を卒業した正実は、陸軍砲工学校、陸軍大学校を出ている。養子にもらわれた時期がいつなのかはっきりとはわからない。しかし奈良から京都の旧制中学校に所属が変わっているということで、この時期に引っ越しを伴った環境の変化があったと考えるのが自然だろう。

養父の正実が京都一中(現在の京都府立洛北高等学校)を出ており、親戚が住んでいるなどの京都についてはゆかりのある土地だったのだろうか。前田正男がどこから通ったのかは定かではない。五條からは桃山まで通えないことはないかもしれないが、当時の交通事情だとあまり現実的ではない。

京都市伏見区。月桂冠でおなじみの酒所でもある。JR奈良線、近鉄京都線、京阪本線が縦に並ぶこの周辺は、第16師司令部をはじめとして、騎兵連隊、野砲兵連隊、工兵連隊があり、当時の桃山は軍都と呼ばれるような町だった。生徒には軍人の子も多く、学校の制服は、陸軍の軍服と同じカーキ色にやや緑がかった鶯茶色だった。だが、学校としてとりわけ軍事教育に力を入れていたわけではなく、卒業後の進路についても職業軍人をめざすようなことは多くなかったという。

桃山中学を卒業した正男は、昭和8年山梨高等工業学校機械科(現・山梨大学工学部)に進学する。入学は中学卒業後2年ほど間が開いているので、今でいう浪人をしたのか。なぜ工業の道に進んだのか。この時期のことは何もわかっていない。ちなみに入学試験は、大阪でも受験できた。英語・数学・物理の3科目だった試験科目は、前年度の入試から2科目(英語と数学のみ)に変更され、正男の入学した年の倍率は13倍を超えていた。

実父も養父も陸軍士官学校に進んでいる。父の父、つまり祖父たちが軍人をめざしたように、父たちも同じ道を選んでいるのだ。しかし正男も兄隆一もまた、軍人としての道を選んでいない。隆一は京都大学へ進学し、第八高等学校(旧・名古屋大学)で数学教授をしていた。

山梨高等工業学校は、山梨県の甲府に創立して8年目を迎えたばかりだった。

大正の終わりから昭和の初めにかけて、甲府という地域はかなり急速に発展を遂げていた地域だった。大正14年から昭和2年にかけて人口は12パーセント増。その前の5年間は20パーセントを越えた。シンボルマークであった舞鶴城を取り壊し、県庁舎と県会議事堂、県立図書館といった建物が出現した。また甲府郵便局、甲府警察署、甲府市水道庁舎などの官庁関係の近代的なビルが次々と建ち始め、一気に近代化が進んだ。その一方で増えるゴミ問題、高騰する市民税を滞納し夜逃げする人びとなど、多くの問題を抱えていた時期でもあった。

昭和8年、機械科の第1学年は40名。名簿を見ると全国津々浦々から学生たちが集まってきている。2学年上の土木科には、同郷である五條中学出身の先輩も在籍していた。近くに実家や親戚が住んでいるという理由がなければ寮生活となる規則であったため、正男も寮住まいだったのではないだろうか。正男は2年次に副総代に選ばれている。今でいう副HR長のようなものであろうか。

昭和9年のサークル活動の記録を見ると、第6回全国高工蹴球大会において、山梨高工が初優勝している。このメンバーの中に「補欠 平田 前田」の名前があった。昭和9年度の学生名簿を確認し、前田という苗字の在校生は正男以外にはいない。これが前田正男なのだろう。サッカーを選んでいるとは、かなり意外な感じがする。

十津川で古くから盛んな剣道や、五條の強い水泳とは全く関係がない。なぜ蹴球なのだろうか。前田正男について調べていると感じることであるが、彼は小さな頃から何かきっちりとした教えを受け、それを継続させながら厳格に育ったという感じがしない。そうなっても良さそうな環境になのだが、妙に不思議な感じなのだ。その時その時で自分自身みずからが選択し、あまりこだわらずにやりたいことを実行している感がある。この点もまた興味深い。

正男が3年次の時、開校10周年記念式典が開かれた。同窓会も成立し、のちに山梨工業会と名前を変える。この34年後、山梨工業会館が竣工し、記念祝賀パーティーで前田正男は自民党代議士としてスピーチをすることになるとは本人も思っていなかったのではないだろうか。

因習にとらわれず、という言い方が適切かどうか分からないが、時代の流れをうまくつかみ自分自身の興味が持てるものにうまく自分をあわせていけるような下地がここまでの生き方で身に付いているのだろうか。養子になり、それぞれの父を2人持ち、生活の環境を変えながら生きてきた正男に自然と身についたものなのかも知れない。

前田正男
1月 12, 2019
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