吉野川

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吉野川の地図





吉野川橋梁

五新線の高架は国道24号線と交差した後、吉野川の手前で途切れている。

この地域の交通の要所だった五條から、この吉野川を渡って野原との間を行き交うことは、幕末の頃から盛んに行われていたようである。早くから簡単な橋があったようであるが、毎年の吉野川の増水で流された。このために五條と野原村の間には渡し舟があった。渡し舟は1644(正保元)年ごろにできたといい、船賃は利用者から取っていなかった。当時の五條村・新町村・須恵村からそれぞれ米麦をそれぞれ集めて負担し、それを渡し守りの給金にあてていたという。現在の大川橋の初代に当たるものは1923(大正12)年8月、五條出身の県会議員西尾信吉氏、あるいは町在住の栗山氏の努力によるものだった。

五新線に関しても、1940(昭和15)年には吉野川にかかる橋脚はできていた。しかし同年9月26日紀伊半島潮岬に上陸した伊勢湾台風により橋脚の一部が流出、その後すべて撤去されてしまう。ここでこの五條と吉野川の深い関わりについて記載するため、伊勢湾台風について触れておきたい。その際の模様は『五條市史上巻』に詳しいため少し長いが引用する。

台風による降水量は平坦部で一五〇粍内外、山岳地帯は一五〇~四〇〇粍、吉野川の増水甚だしく五條付近では二六日午後一〇時最高水位一〇米に達し、市内に浸水し莫大な災害を受けた。

五時には吉野川が警戒水域を突破、午後七時すぎには早くも低地帯が浸水しはじめたので、同市は七時三十分全市に避難命令を出した。同十一時すぎ同県警察本部への連絡によると、五條市約七千六百戸、人口三万五千人のうち、三分の一の家屋が浸水、旧市内は一面に濁流に現れている。

あふれた水勢は不気味な出水サイレンで逃げ出す人々を追いかけるように迫り、避難命令にも、ほとんど家財道具を持ち出す暇もなく、高所に急ぐのに夢中だった。大島、田中、野原、新町などの通りは川に変り、濁流に戸板が浮び、特産の木材が流され、ヤミの向うでは取残された屋根の上から救いを求める声が聞こえて、水防団が救出のため懸命にイカダを作っていた。ちのみ子を背負った母親が幼児をしかって励ましながら五條小学校、地裁支部、五條高校などの避難所に急ぐ。叫びながら商品を運び出す人、避難所では見失った子どもを捜して声をからし各部屋を回っている親がいる。》

伊勢湾台風の記憶も新しいこの年の11月に、城戸まで路肩の出来ている鉄道の代わりにバス路線とする案が浮上する。五新線計画にとって大きな変調であった。新町通りを越えて国道168号線の大川橋を渡り対岸へゆく。橋の下では河川の補修工事が行われており、クレーンによってコンクリートブロックを埋め込んでいた。ここから先の路盤の跡は高架でなく、土を盛りあげてつくられた路肩となっている。

吉野川橋梁
吉野川橋梁
分岐地点から続いていた高架線は、一端ここで途切れる。 (撮影:2001年3月)
吉野川
吉野川
夏の吉野川 (撮影:2006年8月15日)

吉野川まつり

吉野川まつりは毎年夏に催され、日没より灯篭流しと花火の打ち上げが行われている。五條市だけでなく各地からこの祭りに参加する人がいるようで、吉野川周辺では夕刻から交通規制がおこなわれ、JR和歌山線では臨時列車が運行されているほどだ。この日、吉野川の方へ歩いて行くと、団扇を扇ぐ人の群れでにぎわい、土手から河川敷にかけては出店や提灯で飾られていた。かき氷、焼き鳥、ビール、金魚すくい、ラムネ、くじ引き、アイドルプロマイド、お化け屋敷、鮎の塩焼き、臨時郵便局、所狭しと並べられた香具師(やし)が通り行く人びとに声を掛けている。

午後7時、暗くなった吉野川に灯篭が流され始めた。距離にしてわずか100メートルくらいであろうか。ゆっくりとした川の流れにのって、小さな光たちが静かに近づいてくるのだった。午後8時、いよいよ花火が打ち上げられた。赤や青の光の筋が音を立てながら次々と現れる姿に、訪れた見物人からは拍手や驚嘆の声が聞こえてきた。ちなみにこの日、五條の隣の和歌山県橋本市でも「紀ノ川祭り」が行われている。紀ノ川最大の祭りと謳うこの祭りでは10万発の花火と灯篭流しのイベントもあるという。どちらがどちらのまねをしたわけではないと思うのであるが、皮肉にも吉野川の花火が終わった後、帰り際に橋本の方面からこの花火をみることができた。奈良県五條と和歌山県橋本。片方は伊勢街道や紀州街道、十津川街道をつなぐ要所として、もう一方も伊勢街道と高野街道の要衝として栄えた歴史ある宿場町である。互いのライバル心が現代にも引き継がれているのかと思わずにはいられない。

夜店が並ぶ河川敷
夜店が並ぶ河川敷
撮影:2002年8月

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