野原・霊安寺

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野原・霊安寺の地図





野原

吉野川を越えると五條の国道24号沿いとは周囲の風景が一転、五新線跡の周りには拓けた視界に田畑が広がる。野原という地名は、文字の通りから由来となっているのかと思っていたが、そうでもない。長禄年間、野原頼栄という豪族がいたため、これが地名の起こりであるという説がある。

先にも伊勢湾台風について記載したが、この地域では昔から吉野川の出水によって被害を受けることが多かった。この水害を防ぐために、江戸時代に代官であった岡松四郎兵衛が、吉野川護岸のために四郎兵衛藪と呼ばれる竹林を造成した。現在でも吉野川の両側にまばらに残っている。

お知らせ/平成10年1月から日本国有鉄道清算事業団用地に(二文字空白)にさく垣の新設工事を行いますので、平成10年1月20日までに自動車・耕作物等を撤去されますよう協力かたよろしくお願いします/日本国鉄清算事業団/近畿支社大阪事務所長

近くには五條自動車学校(執筆当時。現在この場所ではなく「ナント自動車学校」と名前を変え、吉野郡下市町に移転していた)。さらにつきあたりには五條市健康保険福祉センターができていて、新しい建物が点在的に建てられたことを予想させる。そして五新線の路肩はここで一端途切れている。左に見える県立五條病院を越えると、五新線跡は国道168号線と交差する地点にぶつかる。砕石場の隣にある八幡川橋梁は、1957(昭和32)年11月から1958(昭和33)年3月にかけて作られた。橋の色合いや幅は、五條市街を抜ける高架とほぼ同じである。この位置から直線で現在のバス専用道路につながることが確認できる。

弁天宗

五新線のルートから少し離れたところに弁天宗がある。毎年吉野川で行われる夏祭りでは毎年弁天宗の協力によって灯篭流しが行われている。灯篭流しの時間になると袈裟を着た僧侶たちのあとを灯篭を持った人々がついてゆく姿を見ることが出来た。智弁学園や智弁和歌山は夏の全国高校野球でも毎年名を連ねる名門である。この地で生まれ、地域に根ざした弁天宗について調べてみたいと思い、少し寄り道する。

国道168号線から道を分かれて東のほうに進む。そこから歩いていくと弁天宗総本山があった。4色の鮮やかな五色幕が掲げられ、入口からは伺いきれないが、広くて立派な伽藍である。さらに先に進む。やがてコンクリート色に被われ都会的な建物の智弁学園。周りの緑とは不釣合いな感覚を持ってしまう。昭和40年4月から高等学校が開校し、第1回生は504名だった。その2年後に中学校も開校し、6年間の中高一貫校となって現在まで続いている。訪れたのは学校が夏休み中である8月の昼間であった。野球の練習をしているものかとばかり思っていたが、その姿は見られなかった。練習グラウンドは別の場所にあるのだろうか。

そこからしばらく歩き、天神山とよばれる墓地へ向かう。ここには、弁天宗の開祖である大森清子の墓がある。この墓も広大な敷地を誇り、円を描くように敷地に入り、その中央に始祖が祀られている。沿道沿いにもイベント会場の臨時駐車場さながらに弁天宗の幟(のぼり)が建てられていた。

八幡川橋梁
八幡川橋梁
施行 大鉄工業株式会社 工期 1957.11─1958.3 (撮影:2001年3月)
お知らせ
お知らせ
文章の詳細は左記のとおり (撮影:2001年3月)
荒れはてた路肩
荒れはてた路肩
吉野川を越えてから五新線の路肩には草が生え、一部竹林と化していた (撮影:2001年3月)

霊安寺

専用道路は県立五條病院を抜け、国道168号線から左へ入る。入り口にJRバスの専用道路であることを告げる大きな看板が立てられていた。ここから先は、本当にバス1台分しか通ることのできない道が続くのである。

地名となっている霊安寺はいつ頃できたものなのかはっきりしていない。明治維新の神仏分離によって廃寺になり、現在の万願寺に合併している。周辺はのどかな田園地帯であった。小学生が棒を振り回し、周りの草をたたきながらあぜ道を歩いていたりする。時々、バスの通っていない専用道路を自家用車やスクーターが利用しているのを見かけた。国道168号線と丹生川、そして五新線が平行して南下するこの地域では、南北に自動車が通れる道はこの2本ぐらいしかない。交差点の地面を見ると五新線を通るバスの跡よりも、それを横切る自動車のタイヤ跡のほうが多い。このあたりの五新線は過去の遺跡ではなく、この地に住む人々にとっての生活線となっているようだった。

専用道路に入るバス
専用道路に入るバス
バス幅1台分しかない路線がここから続いてゆく (撮影:2001年3月)
バス専用道路入口
バス専用道路入口
国道24号線から分かれてバス専用道に入る。写真手前のアスファルトがぼろぼろであることに注目 (撮影:2001年3月)

西吉野第二発電所

多雨地域

このあたり五新線はほぼ直線である。しばらく行くと左側に電源開発株式会社の西吉野第二発電所が見えてくる。名前が第二となっているからには西吉野第一発電所が存在しており、こちら西吉野村(当時。現五條市西吉野町)の黒淵にある。十津川の猿谷ダムから導水して第一発電所にて発電している。その流域が黒淵ダムになっており、そこを流水口としてこの第二発電所まで水が運ばれてさらに発電されるようになっている。ダムによる発電と灌漑を兼ねているといってよいだろう。

この紀伊半島の吉野山地は日本屈指の多雨地域である。特に大台ガ原山は年間4781.5ミリの降水量との記載が『五条市史』にある。気象庁のウェブサイトから確認した年間総水量を示す新平年値は47都道府県で高知が2547.5ミリ、ついで宮崎の2508.5ミリとなっていることからも水力発電に適した環境となっていることがわかった。

電力拡大

太平洋戦争後、敗戦国となった日本は国土の多くを失い、復興のための開発は重要なテーマだった。そのために必要となる電力は年を重ねるにつれて需要が増大しており、戦後の電力不足は深刻な問題となっていた。
 
発足したばかりの関西電力は当時、水力発電所を130箇所持っていたが、貯水池式は1箇所しかなく、渇水に対しては脆弱な体制だった。昭和26年は水不足と電力需要の逼迫により、同年5月に自主的制限として大口工場に対して休日振替が実施された。6月は加えて使用電力量の10%抑制依頼、9月6日には週2日の休電日の設定、最大電力の30%抑制、一般線に対しても週2・3日の停電が行われる次第となった。

GHQによる指導に伴い日本発送電株式会社を9つに分割せざるを得なかったが、このような事態になることを見越していた国は、あえて電力を開発を目的とした国策の会社を作ろうという動きがあった。当時にしても発電所を作るのには莫大な金がかかる。民営化された会社よりも資金を調達しやすいという事情があった。電源開発は、1952(昭和27)年9月に設立、その最初の計画として西吉野が含まれている。西吉野第一発電所は総工事費48億3,200万円、西吉野第二発電所は13億3,900万円、猿谷ダムは82億6,500万円がそれぞれ掛けられている。他の電力会社の工費とは桁違いの発電所は、1955(昭和30)年9月23日に運転を開始した。

2000年現在、電源開発では水力発電所58箇所、火力発電所7箇所をもっているが今後は火力や原子力による設備を増やしてゆく予定だという。電気事業法改正により、2000年3月より電力小売の部分自由化、電源開発も2003年を目途に民営化されることが閣議決定された。

主役の座を奪われた水力発電のすぐ隣を、一足先に民営化された国鉄時代からの未成線が通る。発電所から延びる長い管が、冷蔵庫の裏側にいるような音を立てながら五新線の下をくぐっている。もう時代に噛み合うことのない共通項が、ここで交差するように思えてならなかった。

西吉野第二発電所
西吉野第二発電所
白いガードレール部分が五新線跡 (撮影:2001年3月)

生子

五条発7時29分の城戸行きの中で、生子(おぶす)バス停から5,6人の小学生が乗車してきた。車内は少しにぎやかになる。生子は五條市の最も東にある。五新線はここから最初のトンネル、生子隧道をくぐり抜けて西吉野村(現西吉野町)に入る。一方の国道168号線は山を避けるようにして迂回、同じ高度を直線的に進む五新線よりもはるかに高い位置を通る。つまり、この辺りの国道から五新線を俯瞰できるのである。と同時に今まで線に沿って見られていた集落も高低差のはげしい山々に囲まれ、見られなくなってくる。

国道を降りて五新線跡へは、大変な急斜面であった。膝に力を入れ、前のめりになりそうな身体のバランスを取りながら、距離に換算すればほんのわずかなところをジグザグに降りてゆく。

生子(おぶす)隧道
生子(おぶす)隧道
トンネルの真上が国道168号線で、ちょうど白い自動車が走っているのが見える。(撮影:2001年3月)

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