大和二見

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大和二見の地図



川端貨物線

五新線を調べ、その時初めて五條を訪れてからすでに1年半以上が経過した夏、私は再び五條へ足を運んだ。五新鉄道の代わりに路線バスとなったJR阪本線は廃線が決定し、秋より西吉野村の村営バスとなることが決定していた。和歌山線の車両には冷房が設置されておらず、天井に取り付けられた扇風機が首を振ってわずかな微風は肌に感じられる程度の弱いである。夏の五條はからっとした乾いた空気と、射すような日光が強く照りつけており、東京で感じられる蒸すようなじっとりとした不快さとはまた異なる。

駅に出ると地元の甲子園に出場した高校を応援する垂れ幕と、吉野川祭りのポスターが張り出されていた。駅の高台を降り、大和二見方面に向かうと大手のファミリーレストランが2店ほど道路を挟んで新しく林立していた。一店は深夜2時まで営業、もう一店は朝4時までとなっている。昼も夜もない消費型のライフスタイルに合わせた飲食産業は、五條にも進出していた。中に入ると夏休みということもあり、4~5人組の若者が目立つ。へその下まで素肌を露わにしながら、一心不乱に携帯電話を操作し、写真のシールを専用ノートに切り張りする編集作業に夢中になり、またあるグループは祭りに行くため浴衣姿でラーメンを平(たい)らげ、一斉に化粧を直していた。

大和二見駅は五条駅の隣にある小さな無人駅である。中は数脚のプラスチック製椅子と紙コップの自動販売機がおいてある。大阪鉄道によってこの地に鉄道が敷かれたのは明治29(1896)年のことで、まず王寺─二見間が開通した。同32(1899)年に紀和鉄道によって二見─和歌山間が開通し、今の和歌山線の原型ができあがった。この駅の手前から分岐して吉野川畔へ延びる川端線(専用貨物線)が存在していた。川砂利、木材、鉱石の出荷などを行っていたが、貨物量の減少から昭和56(1981)年に廃止された、五條に残る二つめの廃線跡である。現在ではインターネット上から過去の廃線状態をみることができるが、私が実際に歩いてまわったときには道路は新設工事を行っており、ほとんどといっていいくらいかつての路線跡は見られなかった。

大和二見からの分岐点は舗装され、縦長の自転車駐輪場となっていた。直進し国道と交差する地点までは車両の立ち入れない生活道路となっており、カラーアスファルトが敷かれベンチと街灯が不釣り合いな様子でぽつんと置かれていた。浄化センターの看板方向と同じ廃線跡に沿って川沿いを歩いて行くと河岸段丘になっているために、かなりの高度で下に降りる。途中の線路跡上に二見南之町集会場ができており、その先の空き地にわずかながら築堤と高架線跡を発見することできた。レンガ造りの古ぼけた色合いが五新鉄道のそれと同じように思われた。さらに先に進んで行くとアスファルトが途切れ、砂利道が広がる。その先にはがらくた置き場のような空間と、巨大な穴が掘られた工事現場が残っているだけだった。錆びたレールも積み重なって置いてあり、大穴はごみの埋め立て地かなのだろうか。鉄骨や木屑、産業廃棄物があちこちに散乱し、幾台ものショベルドーザがそのままになっていた。廃墟という言葉が最も似合うと、強く照りつける日差しに素肌を焼かれながらしばらく立ち尽くしたのだった。

大和二見から五條へ引き返す途中、吉野川の方へ歩いて行くと、団扇(うちわ)を扇ぐ人の群れでにぎわい、土手から河川敷にかけては出店や提灯で飾られていた。かき氷、焼き鳥、ビール、金魚すくい、ラムネ、くじ引き、アイドルプロマイド、お化け屋敷、鮎の塩焼き、臨時郵便局、所狭しと並べられた香具師(やし)が通り行く人びとに声を掛けている。吉野川祭りは毎年夏に催され、日没より灯篭流しと花火の打ち上げが行われている。五條市だけでなく各地からこの祭りに参加する人がいるようで、吉野川周辺では夕刻から交通規制がおこなわれ、JR和歌山線では臨時列車が運行されている。

残された築堤
残された築堤
カーブを描きながらこの上を列車が走っていた。 今は線路はおろか枕木なども撤去されて 草むらになっている。 (撮影:2002年8月)
大和二見から国道への跡
大和二見から国道への跡
この区間に線路が残されていたが、 今はアスファルトで舗装されている。 (撮影:2002年8月)
川端貨物線高架線跡
川端貨物線高架線跡
吉野川とを結ぶ貨物専用線は、今はほとんど その姿をみることができない。 (撮影:2002年8月)

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