不安な船出

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再び予定路線へ

昭和4年の鉄道会議にて、五條―阪本線(五新線)が予定路線から削除されてからも、鉄道会議は続いていく。多くの路線が延期、バス路線への変更を行い、敷設法制定当時の全体像とはかけ離れていく様子がうかがえる。しばらくの間、五新線は登場してこないのだが、予定線として名前が挙がるのは昭和11年12月の鐵道会議においてである。

鉄道次官喜安健次郎は次のように述べている。

奈良県の五條、阪本間の線路でございます。この線路は敷設法予定線の五條、新宮間の一部に該当しておりまして、奈良県五條驛から分岐しまして、吉野郡の阪本に達する線路であります。この線路の敷設は沿線にあります大きな森林地帯を開発するとともに、鉱業の発展を促進するものでございます。なお、国立公園熊野一帯の名所と近畿地方とを接近せしめる結果と致しまして、これらの地方の探勝客を誘致しまして、既成線を培養するの効果も相当大きなものがございます。この線路の延長は23キロメートル、予算総額は516万円あまりに相成っております。17年度完成の計画でございます。*1


  1. 野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 <第2集> 鉄道会議議事録・鐵道評論他 第18巻 鉄道会議議事録 第18~27回(昭和11~19年)』日本経済評論社(1989年2月20日発行)

起工式

迷走を続けた五新線の建設であるが、ようやく雲の中の光を仰ぎ見たとはこのことであろう。1939(昭和14)年3月、新町国道筋工事起点にて、五新線の起工式が盛大に行われた。会場には300人以上の参列者が集まったという。その当時の大阪毎日新聞奈良版は次のような見出しをつけている。「その日遂に来りて/歓喜に揺ぐ“待望廿年”/きのふ五新鉄道晴れの起工式/関係者の眼に感激の涙」。

相次ぐ延期

昭和11年に再び予定線路に掲げられた五新線であるが、思うように工事は進まなかった。五新線だけではない。そのほかの計画線に関しても着手や完成が遅れたり、計画を取りやめたりするものまで出てきている。昭和13年の第19回鉄道会議では、完成年度を1年繰り延べ、昭和18年へ修正された。五新線を含めて21線が繰り延べになっているのである。

鉄道大臣中島知久はこの方針を次のように述べている。*1

実は事変の関係上、鐵道建設費予算は12、13年度におきまして相当額を後年度に繰り延べる必要を生じたのであります。これは事変に関する国費及び所要物資の膨張に対処して建設費を節約し、国策に順応せんとするものでありまして、誠にやむを得ない所であるのであります。

また昭和14年1月の第20回会議においても1年繰り延べで19年にされている。このとき、すでに五條にて工事は着手されているようだった。毎年ごとに完成年度が伸びていく実情をたたきつけられた。国の方針でやるとなったものの、本当に鐵道ができるのだろうか。作る側も作られる側もそのように考えるまもなく、時局は大東亜戦争へと向かっていくのであった。

(表1) 五條新宮鉄道の完成年度変更履歴
内容 完成年度
1936(昭和11)年 予定線路へ 1942(昭和17)年
1938(昭和13)年 1年延期 1943(昭和18)年
1939(昭和14)年 1年延期 1944(昭和19)年
1940(昭和15)年 1年延期 1945(昭和20)年
1941(昭和16)年 1年延期 1946(昭和21)年
1942(昭和17)年 2年延期 1948(昭和23)年
1944(昭和19)年 1年延期 1949(昭和24)年

  1. 野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 <第2集> 鉄道会議議事録・鐵道評論他 第18巻 鉄道会議議事録 第18~27回(昭和11~19年)』日本経済評論社(1989年2月20日発行)