大盤振る舞い

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五新線請願のはじまり

複数の文献を参考にしたところ、明治の終わり頃から五條より奥吉野への鉄道敷設の声が上がってきたとある。1920(大正9)年7月、宇智郡五條町で五新鉄道期成同盟会が組織されてからというもの、鉄道敷設のために上京し請願書を提出するなど国に働きかけを行ってきた。

以下は大正9年の請願書*1で当時の貴族院及び衆議院両議長宛に出したとある。そのまま引用すると長くなり、記述も古風なので、わかりにくい。当方にて要約すると以下のようになる。この内容は昭和に至るまで数多くの人間から同じくして語られることになる。 (さらに…)


  1. 『西吉野村史』西吉野村教育委員会(1963年4月30日発行)

拡大路線

1892年に公布された鉄道敷設法では、33路線が建設予定線としてあげられたことは先に述べた。実際に地方の幹線ともいえる重要な路線になるこれらは、着々と建設されていった。五條から和歌山につながる和歌山線に関してもこの時に取り込まれており、開通しているここで起きたのが、1922(大正11)年4月に鉄道敷設法を改正する。幹線と幹線とを結ぶ地方線らを計画に取り入れるとして、建設予定線を149線に増やしたのである。そしてこの時初めて「八十二 奈良縣五條ヨリ和歌山縣新宮ニ至ル鐵道」(五新線)が「豫定鐵道線路」の中に含まれることになった。

この鉄道敷設法の改正について、なぜ路線をこれほど広げることになったのか。改正の1年前、第82回鉄道会議*1の中で、この敷設法改正の件が諮られている。石丸重美は次のように理由を述べていた。例によって、表現を平易なものに変えて部分要約していることをご了承いただきたい。 (さらに…)


  1. 野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 第12巻 鉄道会議議事速記録 第20~28回(明治42~大正11年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行)
相次ぐ請願書
相次ぐ請願書
全国から鉄道敷設に関する請願が議会に寄せられた。写真は大正11年3月のもの。

着工を急げ

1922(大正11)年4月に改正鉄道敷設法ができて、五新線が建設予定線に計上されることとなった。それを受けてのことであろう。地元ではこれを是非ともすみやかに着手していただきたいという請願書がある*1ので、みてみよう。例によって、厳密な引用ではない。

制定された鉄道敷設予定線の中、五條新宮間の線路を大正12年度より着手していただきたい

理由
本線は奈良県五條町を起点とし、吉野郡を縦貫し和歌山県新宮町に達する延長66里の経路である。沿線の奈良、和歌山、三重三県の各郡は山岳地帯で、いわゆる吉野熊野であり、農産、林産、鉱産など各種物資の産出が豊富である。特に樽材は吉野郡独自の産出物で、天下無比と称されるものである。これらは輸送機関を欠いているため無尽蔵の宝庫を未だ開発させられていない。殖産興業の発達のため、また我ら地方民を不幸にしないためのみならず、国家経済のために避けるべき問題ではない。

本沿線は地方の運輸機関としては西熊野街道と十津川河流の他、わずかに五條から大塔村阪本に達する大和索道があるが、運輸能力が貧弱で、しかも西熊野街道は最近わずかに一部が県道に編入し、一部改修に着手したものの、工程は遅々としており、全線の完成はほとんど絶望的である。十津川河流は毎年春秋になると洪水氾濫して水運はきわめて危険を伴い、地方民の被害ならびに国家の損失を少なくするためにも、運輸機関の急設を必要とする。

本沿線における重要物産は木材、樽、薪、炭、板などは十津川以北の産出は人肩や馬の背によって五條または橋本に運ぶのである。十津川以南は河流に沿って新宮、阪神その他名古屋に供給されている。その額は1,000万に達するも水道はきわめて危険で、陸路は遅々として搬出能力が乏しく、商機を逃し年々の損害が莫大になり倒産する者を出し、経済界を動揺させている。運輸機関の急設を望む。

本沿線は山紫水明*2、神武天皇の御順路に当たり、至る所に史跡霊域がある。賀名生は後醍醐天皇の行宮(あんぐう)、大塔十津川に黒木御所、天辻には天誅組の苦戦の跡が、吊り橋は奇勝絶景に富んでいて、瀞峡は天下の勝地として誇れるものである。気候は中和で温泉地もあり、その他名勝旧跡に枚挙に暇がないにもかかわらず、交通機関の欠如のために来往がなく、ただ寂しいばかりでこれらの名勝史跡がただの飾りとなっている。もしここに鉄道ができれば、南朝に、熊野三山に詣でて、高野大峰に登って霊感に接し、国民思想の涵養上益するところが少なくない。

本沿線にて水力発電を起こそうとするいくつかの大会社がある。この動力を利用すれば運輸上多大の利便を得る。もし本線が開通したら、伊勢線との相乗効果で無限の国富の開発利用をすることができる。都への物資の需要関係を円滑にし、産業は勃興し、農村は振興し、有事の際には神(ママ)速を期して帝国の防衛に当たれる。

我ら十数万人の沿線民が熱烈なる期待を達成するか否かは、1つに閣下の英断にかかっており、今日の交通文化の恩恵に預かっていない不幸な我らを救済し、生計の安定を得させていただきたいことを陳情する


  1. 『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会(1959年3月31日発行)
  2. さんしすいめい : 日に映えて山は紫色にかすみ、川の水は澄んで清らかに流れること。山水の景色が美しいことをいう。(明鏡国語辞典 第2版)

優先順位

1922(大正11)年に公布された改正鉄道敷設法によって、予定線は149にふくれあがった。その中に五新線も含まれることは先節にて述べたとおりである。実はその後、大正12年度に工事に着手すべき鉄道を何にするかということで会議が行われている。配付された資料には28線が記載されており、149が必要ということで制定された法律が、どのような基準で選ばれているのかは出席した大部分の人間には知らされていなかった。 (さらに…)

増加する予定線

1922(大正11)に改正された鉄道敷設法で、149線が建設予定線に選定された。しかし、政府の意向のよって追加されてきていた。

1925(大正14)年2月8日の毎日新聞には、規定計画を議会で通過させようとする議員の主張が次のようにある。

我が国の鉄道は二万哩(マイル)、これを人口に割り当てれば一万人の人口に対して三哩半という貧弱なものであって、今後二十年を要してようやくイタリーと同程度になるのである。これが我が国の鉄道敷設計画であるのだから、極めて貧弱なものと断言し得るのである。(と述べるや、憲政会辺りから「君のごとく貧弱だ」と半畳を入れて満場失笑)しかしながら財政上の関係もあるから忍び得るだけは忍ぶべきも、帝国の発展は鉄道の発達いかんにかかるとすれば、これが公債政策によるも差し支えないと思う(中略)何卒本案に満場一致の賛成を希望する

これはもう完全に外国に追いつけ追い越せの勢いであった。とにかく国の政策に後押しされる形で全国各地に鉄道敷設の熱が高まっていった。

拡張路線が最も目立ったのは1927(昭和2)年の鉄道会議で、新規追加が14路線、区間を追加する線路が6路線あった*1

さらにこの会議では、着手及び完成を繰り上げる路線が10あり、完成を繰り上げる路線は26ある。五新線も着手年度を繰り上げるとして「着手及完成年度ヲ各一箇年繰上ゲ着手ヲ四年度完成ヲ九年度トス」と記載されている。


  1. 野田正穂・他編『明治期鉄道史資料 第II期 第14巻 鉄道会議議事録 第3~6回(大正15~昭和4年)』日本経済評論社(1988年11月20日発行)